第1話
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軽い食事と身支度を済ませ、
ビアンカは街に出ていた。
トンヌラは一足先に宿を出たようであった。
街のどこにいてもルドマン邸が、その姿を誇らしく主張している。
すでに水のリングは手に入れた。
トンヌラとフローラ嬢はおそらく、結婚に向けて話を進めているのだろう。
そう思うと、ビアンカは切なくなり、そっと胸に手を当てた。
「あっ、ビアンカー! 起きたんだね、おはよう!」
そのとき、
この空に負けないほどの明るい声がビアンカを呼んだ。
聞きなれた声。
トンヌラだ。
ビアンカが振り向けば、黒髪を風になびかせ、手を振りながら走ってくる。
外見は随分たくましくなったとはいえ、
そのしぐさは子供の頃そのままだ。
「トンヌラ、どうしたの。
もうルドマンさんのところへ行っているのかと思った。」
「チロル達と食事してたんだ。
ビアンカはまだ寝てるみたいだったから、
起こしちゃ悪いと思って。」
あはは、と笑って頭に手をやる。
話に聞くだけでも恐ろしい、つらい人生を歩んできたのに、
どうしてこんなにも明るく、純粋に育ってこれたんだろう。
ビアンカは、彼の思い出のままの笑顔を見るといつも疑問に思う。
そして、安心する。
「そうだったの、寝坊してごめん。
やっと水のリングを手に入れたからって、気が抜けちゃったのかもね。」
ビアンカも、負けないくらいの笑顔で答えた。
トンヌラの、遠い月日を経ても変わらない、無邪気な性格。
春の日差しのような、大らかであたたかな笑顔。
傍にいるだけでほっとする、彼のそんな不思議な魅力に、
ビアンカは惹かれていたのかも知れない。
「トンヌラさーん!」
静寂を取り戻しかけたビアンカの心に、
ざわめきが戻る。
甘く可愛らしい声、少し間延びした調子。
トンヌラの後ろから走ってきたのは、フローラ。
腕に愛犬のリリアンを抱き、隣にはチロルを連れている。
「もう、トンヌラさんったら、私たちを置いていくなんてひどいですわ!」
息を弾ませながら講義するフローラの、
赤く染まった頬、すねたような表情、
それらは何もかもが愛らしく、
例えどんなあらくれでさえも、骨抜きにしてしまいそうなほどだった。
「あぁ、ごめんごめん。
勝手にいなくなってたら、ビアンカが心配すると思ってさ。」
「あっ! ビアンカさん・・・こんにちは。」
トンヌラの言葉で初めて気づいたのが申し訳ないと感じたのか、
はしゃいでいるところを見られて気恥ずかしくなったのか、
フローラは少し肩をすくめながら、慌ててビアンカの方に向き直った。
「こんにちは、フローラさん。
ごめんなさいね、トンヌラったらあなたまでモンスターと一緒に・・・
怖くなかった?」
「ええ、あの、私、動物さん大好きなんです。
モンスターさんたちも、慣れればとっても可愛いのですね。
みなさん、いい子達ですし・・・」
心底楽しかった、そんな表情でフローラはにっこり笑った。
普段は、少し古風なほどの丁寧な言葉遣いに、躾けられた立ち姿、
しとやかな物腰に隠れているが、
お嬢様育ちのせいだろう、年齢よりも子供っぽいところがある。
母を亡くしてから病気の父を養ってきたせいか、
オテンバ娘なイメージのわりに大人びた性格のビアンカとは、対称を成していた。
「そう、それならよかったわ。
トンヌラと・・・」
トンヌラと一緒になったら、毎日モンスターと過ごすことになるんだから。
ビアンカはそこまで言おうとして、自ら言葉をさえぎった。
それを言ってしまったら、この胸の切なさに耐えられなくなるかもしれない。
頬が引きつっていないだろうか、嫌味な口調になってしまうかもしれない。
そこまで自分にウソは、つけない。
「あ、あの、ビアンカさん・・・」
ビアンカの葛藤に気づいたのか否か、
フローラが声をかける。
「ごめんなさい、私・・・」
少し肩をすくめて、腕に抱いたリリアンをきつく抱き締め、
上目遣いでビアンカを見上げる。
謝罪と共に、怯えるような、そんな表情だ。
さっきも一瞬だけ、こんなそぶりを見せた。
トンヌラと一緒にいたビアンカに気づいたとき。
申し訳ないような、母親にいたずらを見つかった子供のような。
彼女は、ビアンカの気持ちに気づいていたのだろうか。
おそらく、気づいていただろう。
もし本当にフローラがトンヌラに惹かれていたとしたら、
好きな男の傍にいる女が、気にならないわけがない。
たとえ修道院育ちの彼女が恋に疎かったとしても、
ビアンカが彼に抱く淡い気持ちは、見透かしてしまえたに違いない。
(あぁ、この娘は、本当にトンヌラのことが好きなんだ・・・)
怯えるような目で自分を見上げるフローラを見て、
ビアンカは確信した。
無意識に、くちびるをかんでいた。
「ごめん、ビアンカ!」
一時訪れた静寂を破るトンヌラの声。
トンヌラは、不穏な空気を流し始めていた女性二人の間に割って入った。
「トンヌラ・・・?」
ビアンカは、一瞬ぎくりとした。
もしかして、トンヌラも自分の気持ちを知っているのだろうか。
「君がとっておいてたリンゴ、さっき食べちゃった。
どうしても美味しそうで・・・なあ、そんなに怒らないで。」
杞憂だった。
「プッ、あははっ、ばかね。
そんなついさっきのことなんて、私が知るわけないじゃないの!」
真顔で墓穴を掘ったトンヌラに、ビアンカは思わず噴出した。
「大丈夫、怒ってないわ。
そのかわり、夕食はおごってよね。」
「あ、あぁ、わかったよ。
でもあまり高くないので頼むよ。」
ビアンカは、困ったように頬を掻くトンヌラに、軽く手を振って背を向けた。
女心なんて欠片もわかっていなそうな、
にぶいトンヌラのことが、いとしくて仕方なかった。
そのにぶさに、ホッとした。
反面、寂しくもあった。
複雑な心持をトンヌラに、
・・・そして、フローラに、
さとられないように背を向けたまま、ビアンカは歩き始めた。
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